top of page

VERUM・BONUM・PULCHRUM= Truth・Goodness・Beauty(真・善・美)

x Happy
9月21日
読了時間: 6分

ローマの夜だった。




石畳には少しだけ雨が残り、街灯の光が細長く映っていた。


La Stregaの扉を開けると、外の湿った空気とはまるで違う世界があった。


白いクロス。 磨かれた銀器。 琥珀色の灯り。


壁際の暖炉では、小さな薪が静かに燃えている。



半円形の個室に、すこし物思いにふけたように


一人の客が座っていた。すこし早く来て、待っていたのか、


メモになにかを書いていた。。。



遅れて、ローマに暮らす男がやってきた。


待っていた一人は、その古い友人だった。


テーブルにはムラーノガラスのグラス。



赤ワインが半分ほど注がれている。


ウェイトレスが最初の皿を置いた。




🍳焼いたアーティチョーク。


白いんげん豆の淡いピュレ。


薄く削ったパルミジャーノ。


二人はしばらく黙って食べた。


♡やがて一人の客が言った。


「最近、善って何だろうって考えるの」


男はフォークを止めた。


「善?」


♡「そう。善い人とか、善い行いとか、簡単に言うでしょう」


「うん」


♡「でも、本当に簡単なのかな」


暖炉の薪が、ぱち、と鳴った。


一人は続けた。


♡「例えば友人が間違ったことをしている。友人を守って黙っているのは、優しさかもしれない。でも誠実ではない」


「そうだね」


「逆に、本当のことを全部話す。


それは誠実かもしれない。でも、そのせいで必要以上に誰かを傷つけたら、


それを善と言えるのかな」


男はワインを一口飲んだ。


「つまり、善と誠実さは同じじゃない」


♡「そう。道徳心とも、完全には同じじゃないと思う」


そこへ次の料理が運ばれてきた。





🍳ポルチーニをまとった手打ちのタリアテッレ。


ウェイトレスが皿を置き、静かに説明した。


「ポルチーニは今朝届いたものです。


ソースにはバターをほとんど使っていません。


茸そのものの香りを残しています」


そして一礼して去っていった。


男はパスタを少し巻きながら言った。


「真実を言うことが、いつでも善なら簡単なのにね」


♡「そうなの」


そういった一人は笑った。


「嘘をつかない。人を傷つけない。約束を守る。困っている人を助ける。


そういう規則を全部覚えれば善人になれるなら、


善は簡単でしょう」


「マニュアルにできる」


♡「そう。AIにも覚えさせられる」


二人は顔を見合わせた。


「でも」


一人は続けた。


♡「現実では、それぞれが衝突する」


🎼病気の人に真実を告げること。


🎼家族のために自分の人生を犠牲にすること。


🎼友人の秘密を守ること。


🎼間違いを犯した人を許すこと。


🎼誰か一人を助ければ、

別の誰かを助けられないこと。


🎼正直に話せば、人を傷つけること。


♡「全部、善から始まっているのに」


一人は言った。


♡「選択によっては、誰かが悲しむ」


男はしばらく考えていた。


そして言った。


「だから善って、答えじゃないのかもしれない」


♡「どういうこと?」


「迷うことそのものなのかもしれない」


一人はフォークを置いた。


男は続けた。


「自分が正しいと信じて疑わない人より、


『これで本当にいいのか』と考え続ける人のほうが、


善に近いこともあるんじゃないかな」


🍳そのとき、支配人が仔牛料理を運んできた。





仔牛のフィレ。 赤ワインのソース。


小さな玉ねぎ。 焼いた根セロリ。 そして黒トリュフ。


料理を置いたあと、支配人が二人を見た。


「ずいぶん静かな夕食ですね」


男が笑った。


「善について話しているんです」


支配人は少し眉を上げた。


「それは、料理より難しい話ですね」


「あなたなら、善とは何だと思います?」


突然の質問だった。


支配人は少し考えた。


「私は哲学者ではありませんから」


そう前置きしてから言った。


「ただ、この仕事をしていると、一つだけ思うことがあります」


二人は支配人を見た。


「正しいことをするのと、人を大切にすることは、ときどき違います」


そして微笑んだ。


🎼「その二つの間で迷えることが、人間なのではないでしょうか」


支配人は一礼して去っていった。


しばらく二人とも話さなかった。


やがてもう一人が言った。


♡「真善美っていう言葉があるでしょう」


「真、善、美」


「真は、本当であること。 善は、よく生きること。 美は、美しいと感じること」


「三つとも、人間がずっと追いかけてきたものだね」


♡「でも不思議なの」


「何が?」


♡「シンジツだから美しいとは限らない。


美しい から善いとも限らない。


ゼンイ からしたことが、正しい結果になるとも限らない」




男は小さく笑った。


「三つとも仲良しじゃないんだ」


♡「たぶんね」


二人は笑った。





🍳最後のデザートが運ばれてきた。


大きな白い皿だった。


中央には、透明に近い球体。


薄い飴細工だった。


その中には白い洋梨のムース。


周囲には三つの小さな点が置かれていた。


一つは透明な葡萄のジュレ。


一つはほろ苦いダークチョコレート。


もう一つは金色の蜂蜜。


そして皿の端に、チョコレートで小さく三文字が書かれていた。


VERUM


BONUM


PULCHRUM


男が尋ねた。


「これは?」


ウェイトレスが答えた。


「ラテン語です」


指先で一つずつ示した。


「真。」


「善。」


「美。」


二人は思わず顔を見合わせた。


「厨房で会話を聞いていたの?」


ウェイトレスは笑った。


「いいえ」


そして少しだけ声を落とした。


「La Stregaですから」


そう言って去っていった。


二人は笑った。


やがて男が、透明な飴の球体をスプーンで割った。


ぱりん。


静かな音だった。


完璧だった球体に亀裂が入り、中から柔らかな洋梨のムースが現れた。


もう一人はそれを見ながら言った。


♡「AIがどれだけ進んでも、善について説明することはできるようになるでしょうね」


「きっとね」


♡「何千年分の哲学を読んで、どんな思想家より速く整理するかもしれない」


「うん」


「でも――」


もう一人は少し考えた。


♡「大切な人を傷つけるかもしれない真実を、


今この瞬間に言うべきかどうか」


男は黙って聞いていた。


♡「その人の顔を見て、怖くなって、迷って、それでも何かを選んで、


その結果を自分で引き受ける」


暖炉の炎が揺れた。


♡♡「そこには、知識だけでは説明しきれないものがある気がする」


男は頷いた。


🎼「人間の奥深さ、か」


♡「そう」


しばらくして、もう一人は笑った。


♡「だから善って、深いわ」


男も笑った。


🎼「ものすごく深い」


二人はグラスを合わせた。


小さな音が、La Stregaの静かな個室に響いた。


その夜、二人は善の答えを見つけなかった。


真とは何か。


善とは何か。


美とは何か。


結局、一つも完全には分からなかった。


けれど、それでよかった。


人間は、答えを持っているから人間なのではない。


矛盾するものの間で迷い、


誰かを思い、


間違え、


考え直し、


それでももう一度、より善いほうを選ぼうとする。


その営みそのものに、


人間という存在の、


少し不完全で、


そして不思議な美しさがあるのかもしれなかった。


外では、ローマの雨が上がっていた。


石畳の水たまりに、


La Stregaの灯りが揺れていた。



つづく


著作権ここにあり、転載不可

bottom of page