以心伝心(テレパシー)
- x Happy
- 4月12日
- 読了時間: 4分
ある静かな午後、45歳の彩(あや)は、いつものようにアトリエの窓辺に座っていた。
外は小雨が降り、ガラスに細かな水滴がいくつも溜まっている。
彼女は両手を膝の上に置き、目を閉じた。
すると、頭の中に、柔らかく温かい声が響いた。
『彩、いる?』
彩の唇が、わずかに緩む。
『いるよ、遥(はるか)。今日も遅くまで仕事?』
声は出さない。心の中でだけ、言葉が紡がれる。
二人はもう十年以上、こうして「テレパシー」でしか会話をしていなかった。
きっかけは、遥が突然「彩の心が聞こえる」と言ってきたあの日から。
最初は驚き、怖がり、試し、信じ……そして今では、
これが二人の最も自然なコミュニケーションになっていた。
『うん。会議が長引いて。もうヘトヘト。』
遥の声は、少し疲れを含みながらも、どこか甘えるような響きがあった。
彩は目を閉じたまま、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
『お疲れ様。今日は何を食べたい? 私が作って待ってるよ。』
『彩の作る味噌汁と、焼き鮭……それと、あなたの隣に座って、ただ黙って寄りかかりたい。』
彩は小さく笑った。声に出さなくても、
遥にはその笑いがちゃんと伝わる。
『わかった。鮭はちゃんと脂ののったのを買っておくね。』
二人は、物理的には離れていても、心はいつも触れ合っていた。
彩は独身で、このアトリエで絵を描きながら暮らしている。
遥は大手企業の管理職で、夫と二人の子どもがいる。
表向きは「親友」として付き合い、
家族ぐるみの付き合いもあった。
でも本当のつながりは、誰にも知られていないこの
「想いの交信」だけだった。
夕方六時半。
彩がキッチンで鮭を焼いていると、再び遥の声が届いた。
『今、駅に着いた。もうすぐ行くね。』
『待ってる。ドアは開けておくから。』
十分後、玄関のドアが静かに開いた。
遥はコートを脱ぎながら、濡れた髪を軽く手で払う。
目が合うと、二人は同時に微笑んだ。
言葉は必要ない。
心の中で、すでにたくさん話していたから。
遥が近づいてきて、彩の背中にそっと腕を回した。
彩はフライ返しを持ったまま、目を細める。
『おかえり。』
『ただいま。……彩の匂い、好き。』
遥の想いが、温かい波のように彩の胸に広がる。
彩もまた、自分の想いを、優しく遥の心に返す。
『遥が来ると、この部屋が一気に明るくなる。』
『疲れてる顔、かわいいよ。』
『今日もあなたに会えて、嬉しい。』
二人はそのまま、しばらく抱き合っていた。
鮭の焼ける音と、雨の音だけが部屋に響く。
やがてテーブルに並んだ夕食を前に、二人は向かい合って座った。
口では普通の世間話をする。
「今日の会議、きつかった?」
「まあね。でも、なんとかまとまったよ。彩の絵は進んでる?」
でもその裏で、心と心は別の会話を続けていた。
『実はね、今日、夫に「最近冷たい」って言われた。』
『……ごめんね、私のせい?』
『違うよ。遥が彩を想う気持ちは、悪いことじゃない。』
『でも、家族を傷つけたくない。』
『わかってる。私も、遥の幸せを一番に考えてるから。』
遥が箸を止めて、彩の目を見つめた。
その瞳に、切なさと、愛しさが混じっている。
彩は静かに心で囁いた。
『遥、私はもう十分幸せだよ。
こうして想いを伝え合えるだけで。
触れ合えるだけで。
あなたが私のそばにいてくれるだけで。』
遥の目が、うるっと光った。
『彩……大好き。
この気持ち、言葉にしたらきっと壊れてしまうから、
ずっと心の中でだけ、伝え続けたい。』
二人は、微笑みながら同時に頷いた。
その夜、雨はいつまでも降り続いた。
アトリエのソファで、二人はリラックスしていた。
彩は遥の髪を優しく撫でながら、目を閉じる。
心の中は、静かで、甘くて、切なくて、
誰にも邪魔されない、二人のだけの世界だった。
『彩、明日も……こうして会える?』
『もちろん。いつでも、どこにいても、私はここにいるよ。』
二人の想いは、雨の音に溶け合いながら、
優しく絡み合っていた。
45歳の、二人の女。
言葉を超えた、深い絆。
それは、誰にも知られることなく、
静かに、確かに、続いていくのだった。
解説
テレパシーという言葉は1882年に生まれましたが、
言葉や感覚器官を使わずに思いや情報を伝えるという概念は
遠い昔から文化、宗教、神話に存在していたようです。


