La Strega 第五話 ―― ティベレ川の夜風
- x Happy
- 2 日前
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ジャズ・ディナーが終わったのは
深夜零時過ぎだった。
最後の客を見送り、グラスが片付けられ、厨房の火が落ちる。
数時間前まで熱気に満ちていたLa Stregaは、
まるで何事もなかったかのように静まり返っていた。
「シェフ、今日もお世話になりました。
明日はお休みの日なので明後日
またよろしくおねがいします」
アンはスタッフ全員に、丁寧に今日の挨拶をして
裏口から外へ出た。
夜の空気が心地良い。
厨房の熱で火照った頬を冷ましてくれる。
石畳の路地の先に、エンツォが立っていた。
ギターケースを背負い、街灯の下で空を見上げている。
「お疲れさま。」
アンは微笑む。
「お疲れさまです。」
「少し歩こうか。」
彼女は頷いた。
ローマの夜は昼間とは別の顔を持つ。
昼間の観光客の喧騒は消え、
石畳には二人の足音だけが響く。
閉まったカフェ。
静かな噴水。
古い教会の鐘楼。
千年以上の時間を抱えた街は、夜になると不思議な静寂をまとっていた。
やがて二人はティベレ川へ辿り着く。
川面には街灯の光が揺れている。
橋のアーチが黄金色に照らされ、
その光が水の上で砕けていた。
ゆっくり流れる黒い水。
遠くを走る車のライト。
時折吹く夜風。
ローマの夜景は派手ではない。
だが長い歴史の重みを静かに語りかけてくる。
二人は川沿いを歩き続けた。
そしてやがて、小高い場所にある展望ポイントへ辿り着く。
ティベレ川が大きく蛇行し、
その向こうにローマの街並みが広がっている。
アンは思わず息を呑んだ。
「……綺麗。」
夜空の下。
無数の屋根が広がる。
オレンジ色の街灯。
古い鐘楼。
遠くの丘。
そして。
夜の闇の中に浮かび上がる巨大なドーム。
サン・ピエトロ大聖堂だった。
St. Peter's Basilica
柔らかなライトに照らされたその姿は、
まるで夜空に浮かぶ月のようだった。
さらに視線を動かせば、
その向こうに広がる
Vatican City
の灯りが見える。
静かで神秘的な光景だった。
ティベレ川はそのすべてを映し込み、
ローマとヴァチカンの光を抱きながら流れている。
エンツォは欄干に肘を置いた。
「ここが好きなんだ。」
「私も好きになりそうです。」
アンは本気でそう思った。
しばらく二人は黙って夜景を眺めていた。
風が吹く。
遠くで鐘の音が鳴る。
やがてエンツォが尋ねた。
「アンは子供の頃から料理人になりたかったの?」
アンは少しだけ笑った。
「実は違うんです。」
「へえ。」
「本当は女優になりたかった。
ニューヨークのビストロで2年間厨房で働きながら
実は女優を目指していました。」
エンツォが彼女を見る。
アンは夜景を見つめたまま続けた。
「小さい頃から映画が好きだったんです。」
彼女は少し恥ずかしそうに笑う。
「古いイタリア映画も好きでしたし、
ミュージカルも好きでした。」
「似合いそうだ。」
「みんなそう言うんです。」
アンは苦笑した。
「でもオーディションに全然受からなくて。」
夜風が髪を揺らす。
一度。
二度。
十度。
何十度。
結果は同じだった。
「最終選考までは行くんです。」
アンは笑う。
「でもいつも最後で落ちる。」
その笑顔は少し寂しかった。
「才能が足りなかったんでしょうね。」
エンツォは何も言わない。
ただ静かに聞いている。
それがありがたかった。
「ある日、最後のオーディションに落ちた帰りに
前からずっと気になっていた、
La Stregaの研修の応募にメッセージだしたんです。」
アンは懐かしそうに話した。
「あの日、すごく落ち込んでいて。」
「うん。」
「何もしたくなくて。」
『叔母にもたびたび、相談していました』
新しい道が私には残っている。
子供のころから好きだった料理の道、
叔母がずっとの目指していた道、
「そしたら叔母が言ったんです。」
泣く暇があったら
新しい道で 動きだしなさいっって・・・・
エンツォが吹き出した。
「君のおばさんはなにしてるの?」
「今は普通の主婦だけど、
若いころは一度は3つ星以上のレストランの
シェフをめざしていました。
でも、、、」
「そっか。。。3つ星めざすなんて、すごいな、、」
二人は微笑んだ。
アンは夜景を見つめた。
『夢が終わったなら、新しい夢を探せばいい。』
それは慰めではなかった。
励ましでもなかった。
ただ事実だった。
だからこそ胸に残った。
沈黙が落ちる。
深夜、ティベレ川の流れる音だけがそっと聞こえる。
エンツォは静かに言った。
「俺もね。」
「え?」
「音楽大学を落ちてる。」
アンが驚いて振り向く。
「本当に?」
「本当に。」
彼は笑った。
「最初は声楽をめざしていたけど、
喉のヒダが歌に向いていないといわれたよ、
それで不合格さ。。」
「世界が終わったと思った。」
その顔はどこか懐かしそうだった。
「でも終わらなかった。」
アンも笑う。
「そう、、、」
「だから」
エンツォは夜景を見る。
「オーディションに落ちたからって、女優じゃなくなるわけじゃない。望みはまだある」
「。。。。。」
アンは言葉を失った。
風が吹く。
サン・ピエトロ大聖堂の灯りが静かに輝いている。
「人前で誰かに何かを届けたいと思うなら、
それは今でも変わらないだろ?」
アンは答えられなかった。
胸の奥が少し熱くなっていた。
やがてエンツォはギターケースを開いた。
深夜だから本当に小さな音で弾く。
ティベレ川の流れに溶けるような旋律。
夜のローマ。
遠くに見えるヴァチカン。
静かな水面。
そして隣にいる誰か。
そんな景色をそのまま音にしたような曲だった。
アンは何も言わずに聴いていた。
曲が終わる。
夜風だけが流れる。
エンツォは少し照れたように笑った。
「新曲。」
「タイトルは?」
彼は少し考えた。
そして答える。
「まだ決めてない。」
アンが笑う。
「じゃあ私が決めてもいいですか?」
「もちろん。」
アンは再び夜景を見る。
ティベレ川。
ローマの灯り。
サン・ピエトロ大聖堂。
夢に破れた自分。
そして今の自分。
「……『もうひとつの幕開け』。」
エンツォはその言葉を繰り返した。
そして静かに頷いた。
「いいタイトルだ。」
ローマの夜は深まっていく。
川は変わらず流れている。
人生もまた同じように流れていく。
失った夢も、
新しく見つける夢も、
すべてを抱きながら。

つづく


