La Strega 第3話ーー 青い夜
- x Happy
- 2 日前
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青い夜のギタリスト
ローマの夏の夜は長い。
三つ星レストラン「La Strega」では、
年に数回だけ特別なイベントが開かれる。
その夜はジャズ・ナイトだった。
店内の照明はいつもより落とされ、キャンドルの灯りがテーブルを静かに照らしている。
料理と音楽。
その二つを最高の形で融合させる夜。
午後五時半。
営業開始前のホールでは機材の搬入が行われていた。
アンは前菜の準備を終え、冷蔵庫から出てきたところだった。
その時。
「すみません。」
低く柔らかな声が聞こえた。
振り返ると、一人の男が大きなギターケースを抱えて立っていた。
長身。
黒髪。
少し伸びた前髪。
白いシャツの袖を無造作にまくっている。
「楽屋はどちらでしょう?」
アンは一瞬言葉を失った。
男の瞳が、不思議なほど穏やかだったからだ。
「あ……えっと、奥です。」
「ありがとう。」
男は微笑んだ。
その笑顔に、なぜか胸が少しだけ苦しくなる。
男はそのまま歩いていった。
「誰?」
背後から声がした。
振り返るとパティシエのルカが立っている。
「今日のゲストらしいよ。」
「ゲスト?」
「世界中回ってるジャズギタリスト。」
ルカは肩をすくめた。
「エンツォ・ベルナルディ。」
アンはその名前を覚えた。
理由は分からない。
だが、その名前を忘れたくないと思った。
―――
午後七時。
ディナー営業開始。
厨房は戦場だった。
鍋が鳴る。
皿が飛ぶ。
オーダーが飛び交う。
その中でアンは必死に手を動かしていた。
だが。
ホールから流れてくるギターの音が耳に入るたび、意識がそちらへ向いてしまう。
柔らかい音。
静かな波のような旋律。
忙しい厨房の熱気さえ冷ましてしまうような音だった。
「アン。」
突然ヴィオラの声が飛んだ。
「はい!」
「手が止まってる。」
アンは慌てて動き出す。
ヴィオラはじっと見ていた。
そして小さく言った。
「音楽に恋をするのは結構。」
アンの顔が赤くなる。
「ち、違います!」
「そう。」
ヴィオラはそれ以上何も言わなかった。
だが唇の端だけ少し上がっていた。
―――
営業終了は深夜だった。
最後の客が帰る。
スタッフたちは疲れ果てていた。
アンも椅子に座り込みそうになる。
その時だった。
ホールからギターの音が聞こえた。
まだ誰かいる。
気になって覗くと。
ステージにエンツォが一人で座っていた。
客はいない。
キャンドルもほとんど消えている。
それでも彼は静かにギターを弾いていた。
アンは思わず立ち止まった。
音があまりにも綺麗だった。
まるで夜そのものが歌っているようだった。
曲が終わる。
エンツォが振り向いた。
「あ。」
アンは固まる。
見つかった。
「聴いてた?」
「す、少しだけ。」
「少しじゃなさそうだけど。」
彼は笑った。
アンは恥ずかしくなった。
「ごめんなさい。」
「謝ることじゃないよ。」
エンツォは椅子を指差した。
「座る?」
アンは迷ったが座った。
静かな店内。
二人だけ。
「料理人なんだね。」
「まだ見習いです。」
「そう見えない。」
「シェフに聞いたら怒りますよ。」
「シェフ?」
「ヴィオラ・ロッシ。」
エンツォが吹き出した。
「やっぱり怖い?」
「ええ。」
「俺も怒られた。」
「え?」
「リハーサルで一曲長く弾きすぎて。」
アンは思わず笑った。
想像できた。
『料理が冷めるわ』
そう言うヴィオラの姿が。
二人はしばらく話した。
音楽のこと。
料理のこと。
旅のこと。
気づけば一時間以上経っていた。
こんなに誰かと話したのは久しぶりだった。
―――
それから数日。
エンツォはローマに滞在していた。
昼は練習。
夜は演奏。
そして営業後。
二人は少しずつ話すようになった。
市場帰りのカフェ。
営業後の深夜の散歩。
テヴェレ川沿いのベンチ。

アンは気づいていた。
彼といると時間が短くなる。
そして別れ際になると少し寂しい。
それは初めての感情だった。
―――
ある夜。
営業後の店の屋上。
ローマの夜景が広がっていた。
遠くにライトアップされた街並みが見える。
エンツォはギターを抱えていた。
「新しい曲を書いた。」
「本当?」
「まだ途中だけど。」
彼は弾き始めた。
優しい旋律だった。
どこか不器用で。
どこか温かい。
曲が終わる。
アンは胸がいっぱいになっていた。
「素敵。」
エンツォは少し照れたように笑う。
「君をイメージした。」
アンの心臓が跳ねた。
夜風が吹く。
沈黙。
そして。
「アン。」
「……はい。」
「次のツアーが終わったら。」
彼は真っ直ぐ見つめた。
「またここへ戻ってきたい。」
アンは何も言えなかった。
だが。
その意味は分かった。
エンツォがそっと手を差し出す。
アンもゆっくり手を重ねた。
その瞬間。
背後から声がした。
「営業時間外にホール以外で仕事以外のこと考えるなら
なら報告しなさい。」
二人が飛び上がる。
振り返る。
そこには腕を組んだヴィオラがいた。
「シェフ!?」
「まったく。」
ヴィオラはため息をつく。
だが。
その目はどこか優しかった。
「ただし。」
二人を見る。
「アン。」
「は、はい!」
「仕事に影響を出したら、
彼のギターを薪にするわよ。」
エンツォの顔が青ざめた。
アンは吹き出した。
そしてヴィオラも、ほんの少しだけ笑った。
ローマの夜空に。
静かなギターの音が再び響く。
魔女のレストランに訪れた、小さな始まりだった。

つづく――


