大分の旅
- x Happy
- 5月16日
- 読了時間: 3分
更新日:5月18日
秋の終わり。
イタリア・ローマから来た青年、
ルカは、日本の九州を旅していました。
彼は三十五歳。 ローマでは小さなバールを営み、
エスプレッソを淹れ、 夜にはワインを語り、
休日にはパスタを打つ――そんな暮らしをしていました。
けれど最近、心が少し疲れていました。
観光客は増え、 SNS映えを求める客ばかり。
料理より写真。 味より流行。
「本当に大切なものって何だろう」
そう考えるようになっていたのです。
だから彼は、日本へ来ました。
静かな国を見たかった。
丁寧に生きる人たちを見たかった。
福岡から列車に乗り、 由布院を抜け、
湯気の立ちのぼる 大分 の町へ。
夜になると、石畳は雨で濡れ、
赤い提灯がぼんやり光っていました。
ルカは小さな居酒屋へ入りました。
木の引き戸。 古い柱時計。 炭火の香り。
カウンターの奥には、白髪の店主。
「いらっしゃい」
その声は静かで、 どこか安心する響きでした。
ルカは日本語で頑張って言いました。
「おすすめ、ください」
店主は少し笑い、 一本の焼酎を持ってきました。
――知心剣。
透明な瓶。 無駄のない文字。
ルカは興味深そうに尋ねました。
「これは…日本のウォッカ?」
店主は笑います。
「違います。 麦焼酎です」
小さなグラスに注がれた液体から、
香ばしい麦の香りが立ち上りました。
ルカはひと口飲みます。
……静かな味でした。
強いのに、乱暴じゃない。 香るのに、うるさくない。
イタリアのグラッパとも違う。 ウイスキーとも違う。
もっと、静かで、 もっと、真面目な味。
「これは……美しい」
ルカは思わずイタリア語で呟きました。
「Bellissimo…」ベリッシモ。。。。
店主は、 「その焼酎、“しらしんけん”って読むんですよ」 と言いました。
「意味は?」

「本気。 一生懸命。 ごまかさないって意味です」
ルカは、その言葉を何度も口の中で転がしました。
「Shi…ra
…shin…ken…」
店の外では、温泉の湯気が白く漂っています。
店主は続けました。
「派手じゃなくてもいい。 時間がかかってもいい。 でも、ちゃんと作る。
大分の人は、 そういうの大事にするんです」
ルカは静かに頷きました。
その瞬間、 彼はローマの自分の店を思い出していました。
祖父から受け継いだエスプレッソマシン。 朝早く焼くコルネット。 常連たちの笑顔。
いつの間にか、 “流行る店”を目指して、 大切なものを忘れていたのかもしれない。
ルカはグラスを見つめながら言いました。
「イタリアにもね、 “本当に良い料理”は、 ゆっくり作るんです。
急ぐと、 心が消えてしまう」
店主は笑いました。
「同じですね」
その夜、 ルカは温泉旅館へ戻る途中、 小雨の降る大分の道をゆっくり歩きました。
提灯の灯り。 湯気。 遠くの電車の音。
そして胸の中には、 新しい日本語が残っていました。
――しらしんけん。
本気で生きること。 真面目に作ること。 ごまかさず、 心を込めること。
ローマへ帰ったら、 もう一度、 自分のバールを“しらしんけん”に作り直そう。
そう決めながら、 ルカは小さく笑いました。
温泉の湯気の向こうで、 大分の夜は静かに更けていきました。
つづく


