La Strega 第2話
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更新日:2 日前
魔女の朝は、誰よりも早い。
ローマの空がまだ群青色に沈んでいる午前4時45分。
三つ星レストラン「La Strega(魔女)」の総料理長、
ヴィオラ・ロッシはすでに目を覚ましていた。
窓の外には街灯だけが静かに光っている。
エスプレッソを一杯、そして500mlのお水をゆっくり。。
黒い皮の手帳を開く。
その日の予約客、アレルギー情報、仕入れ予定。
すべてを確認してから、黒いコートを羽織った。
「今日も戦争ね」
そう呟いて家を出る。彼女の戦場は厨房であり、市場であり、そして何より「完璧」そのものだった。
~~午前6時 ローマ中央市場~~
市場はすでに活気に満ちていた。魚屋の声、野菜を運ぶ台車の音、氷の砕ける音。夜明け前の冷たい空気に、潮の香りと土の匂いが混じり合う。
ヴィオラは真っ直ぐ魚市場へ向かう。白い息を吐きながらも、足取りは迷いがない。
「おはよう、魔女! 今日も一番乗りかよ!」

魚屋のマルコが、血と鱗のついたエプロンを叩きながら笑った。髭の濃い、恰幅の良い男だ。彼とはもう15年以上の付き合いになる。
「おはよう、マルコ。今日は笑顔が多いわね。魚の鮮度に自信があるの?」
「自信? それ以上だぜ! 昨夜、ファンティーノ船長が沖で獲ったばかりのヤツを特別に回してもらったんだ。ほら、見てくれよこのスズキ!」
マルコが誇らしげに持ち上げたスズキを、ヴィオラは一瞬で値踏みした。
彼女は魚の目を見る。エラの色を確かめる。腹の張りを指で軽く押す。鱗の光沢を掌で撫でる。
「……悪くない。でもこの個体は少し疲れているわ。昨夜の波が強かったのね」
ヴィオラは静かに言った。
マルコが目を丸くする。
「マジかよ……確かに昨夜はちょっと荒れてたけど、普通の客じゃ絶対分からねえぞ。それとも魔女の鼻は魚の心臓の鼓動まで聞こえるのか?」
「鼓動は聞こえないけど、死に際の微かな酸化は分かるわ。……この子は主役には立てない。でもスープや下処理には使える」
ヴィオラは別のスズキを指差した。「こっちの3匹を頂くわ。目がまだ生きてる」
マルコはため息をつきながらも、嬉しそうに笑った。
「相変わらず容赦ねえなあ。……でもお前さんがそう言うと、俺も安心して売れるよ。他の店じゃ『全部新鮮!』って適当なこと言ってる連中がいるけどよ、魔女の厨房に嘘は通じねえからな」
「嘘は料理に出るものよ、マルコ。客はそれを味わいに来るの。……ところで、昨日言っていたアサリはどう?」
「ああ、ちゃんと取っておいたぜ。砂抜きも念入りにやらせた。ヴィオラさんのリクエスト通り、塩は控えめだ」
マルコは小さな木箱を持ち上げ、中の大きなアサリを見せた。
「今年は豊漁だったが、お前さんの基準に合うのはこれだけだ」
ヴィオラは一つを手に取り、殻を軽く叩いて音を確かめ、鼻を近づけて海の香りを嗅いだ。
「……良いわ。全部貰う」
魚市場を後にする頃には、彼女の籠は重くなっていた。
~~野菜市場~~
次に足を運んだ野菜市場では、陽が少しずつ昇り始めていた。
「おはよう、ヴィオラさん!」
いつも彼女の来るのを待っている老女・マルゲリータが、皺だらけの笑顔で迎えた。
「今日のアーティチョーク、すごくいいのが入ったわよ。棘も柔らかいし、心の部分が特に立派!」
ヴィオラは一つを手に取り、葉を一枚ずつ丁寧にめくって香りを確かめる。

「マルゲリータ、今年の土はどう? 少し酸性に傾いている気がするわ」
老女は目を細めて笑った。
「相変わらず鋭いわねえ。ええ、ちょっと雨が多かったからね。でもこの子たちは頑張ってくれたわよ。味見してみて?」
ヴィオラは小さなナイフで芯の部分を薄く削り、口に含んだ。
目を閉じ、ゆっくりと咀嚼する。
「……甘みが増している。苦味も綺麗に出てるわ。良い仕事をしたわね、マルゲリータ」
老女の顔がぱっと明るくなった。
「あなたに褒められると、畑仕事をした甲斐があるわ。……ところで、去年のズッキーニの花の件はもう怒ってないでしょう?」
「あの時、3時間かけて下処理した花が全部しなしなだった件ね?」
ヴィオラはわずかに唇の端を上げた。「忘れてないわ。でも今年は許してあげる。……この花を20輪。傷のないものを選んで」
マルゲリータは慌てて選別を始めた。
「本当に厳しいんだから……でもそれが三つ星の魔女だものね」
トマトの前では、若い農家の青年が緊張した面持ちで立っていた。
「ロッシさん、今年のサンマルツァーノ、自信作です!」
ヴィオラは一つを手に取り、香りを嗅ぎ、指で軽く押す。
「糖度は上がっているわ。でも酸味が少し弱い。雨の影響?」
青年が肩を落とす。
「……はい。どうしても雨が多くて……」
「落ち込む必要はないわ。酸味が弱い分、煮詰めて旨味を凝縮させる使い方もある。今日はこの品種を少し多めに貰うわ。明日からのソースにちょうどいい」
青年の顔が明るくなった。
「ありがとうございます! 魔女の厨房で使ってもらえるなんて、光栄です!」
~~午前8時 レストラン~~
仕入れた食材を冷蔵庫へ運ぶ。
巨大な冷蔵庫の中は整然としている。
魚。
肉。
野菜。
チーズ。
一本のパセリですら置き場所が決まっていた。
「乱れは料理に出る」
それがヴィオラの口癖だった。
仕入れた食材を冷蔵庫へ運び終えたヴィオラは、静かな厨房で一人、
昨日仕込んだソースを味見していた。
「……悪くない」
魔女からすれば、最高の褒め言葉だった。
彼女は市場で見た魚の目、野菜の香り、生産者たちの顔を思い浮かべながら、小さく微笑んだ。
三つ星とは、ただ高級な料理を出すことではない。
それは、朝一番に市場で命と向き合い、それを最大限に活かす「責任」なのだ。
~~午前9時~~~
厨房にはまだ誰もいない。
静寂。
ヴィオラは一人でソースを確認する。
昨日仕込んだフォン。
仔牛の出汁。
トマトソース。
バジルオイル。
スプーンで少しだけ味見する。
目を閉じる。
「……悪くない」
そしてヴィオラは仮眠に入った。
~~午後1時~~
スタッフが次々と出勤してくる。
アンもその一人だった。
「おはようございます、シェフ!
今日もよろしくお願いします。お世話になります」
スタッフみんなに挨拶した。
「遅い」
時計を見る。
まだ12時58分。
アンは苦笑した。
「今日は早いですね」
「二時間遅いくらいよ」
厨房は一気に忙しくなる。
魚を捌く者。
野菜を切る者。
パンを焼く者。
デザートを仕込む者。
全員が無言に近い。
動きだけで会話している。
アンはアーティチョークの下処理をしていた。
一枚ずつ丁寧に葉を剥く。
そこへヴィオラが現れた。
「止まりなさい」
アンの手が止まる。
「そこ」
ヴィオラはナイフを指差した。
「3ミリ深い」
アンは目を見開く。
「えっ?」
「3ミリよ」
ヴィオラは実演して見せた。
確かに余分な部分が残らない。
アンは思わず笑ってしまう。
「普通の人には分かりませんよ」
「普通の人のために三つ星をやっているわけじゃない」
午後3時。
パン担当のルカが悲鳴を上げる。
「シェフ! フォカッチャの発酵が早すぎます!」
ヴィオラは一目見る。
「温度が高い。冷蔵室へ」
「はい!」
「走りなさい! パンは待ってくれない!」
午後4時。
厨房の熱気は最高潮になる。
鍋が鳴る。
包丁が響く。
オーブンが唸る。
スタッフ全員が汗だくだ。
だが誰も弱音を吐かない。
ここは魔女の厨房。
弱音を吐く暇があれば手を動かす。
午後4時50分。
ヴィオラは全員を見渡した。
魚担当。
肉担当。
前菜担当。
デザート担当。
そしてアン。
一年前は震えていた若い料理人。
今は堂々と立っている。
ヴィオラは小さく頷いた。
「みんな聞きなさい」
厨房が静まる。
「今夜も満席よ」
誰も驚かない。
毎日のことだった。
「客は人生で最高の食事を期待して来る。その期待を裏切るな」
全員が声を揃える。
「はい、シェフ!」
午後5時。
店の扉が開く。
最初の客が入ってくる。
その瞬間。
ヴィオラの目が鋭く光った。
「さあ始めるわよ」
魔女の一日で最も長い夜が、
また始まったのである――。

つづく


