top of page

こころの家庭料理

  • x Happy
  • 4月19日
  • 読了時間: 3分

更新日:4月22日

京都の細い路地の奥に、灯りがひとつだけともる小さな店があった。


暖簾には、ただ一言「おばんざい」とだけ書かれている。


その店に、毎週決まった曜日にやってくる男がいた。


名前は、佐伯。都内で働くサラリーマンで、出張のたびにこの店に足を運ぶ。


彼はふとした拍子に、こう思うことがあった。


——自分は「家庭の味」というものを、ちゃんと知らないのではないか。


コンビニ、外食、出来合いの惣菜。


それは便利で、確かに美味しい。けれど、どこか心の奥に触れてこない。


「ただいま」と言っても、誰もいない部屋。


温め直した味噌汁の湯気は、どこかよそよそしい。


だから彼は、この店に来る。


「いらっしゃい」


店主の女性は、穏やかな声で迎える。


カウンターには、小さな鉢がいくつも並び、季節の匂いが漂っていた。


かぼちゃの煮物、ひじきの炊いたん、だし巻き卵。


どれも派手さはないのに、不思議と胸に沁みる。


「今日も、優しい味ですね」


佐伯がそう言うと、店主は笑った。


「優しいんやなくて、普通なんよ。これが、毎日の味」


その“普通”が、彼には遠かった。


――その夜のことだった。


店の引き戸が、ころん、と音を立てて開いた。


まるで何かが転がり込んできたように。


「いたた……ここ、どこかしら?」


青いワンピースの少女が、床に座り込んでいた。


金色の髪に、大きな瞳。


それはまるで、不思議の国のアリスから抜け出してきたような少女だった。


「……え?」

佐伯も店主も、しばらく言葉を失った。


アリスはきょろきょろと店内を見回し、やがて嬉しそうに言った。


「いい香り!ここ、すごく素敵な場所ね」


店主は少しだけ間を置いてから、くすりと笑った。


「迷子さんかいな。まあ、ええわ。座りなさい」


アリスは素直にカウンターに座る。


目の前に並ぶ小鉢を見て、目を輝かせた。


「これ、全部食べていいの?」


「もちろん。これはね、“おばんざい”いうんよ」


「おばんざい……?」


「毎日食べる、普通のごはんや」


アリスは一口、かぼちゃを食べた。


その瞬間、彼女の表情が変わる。


「……なにこれ」


驚きではなく、静かな感動だった。


「すごく、やさしい……でも、ちゃんと味がある」


佐伯はその言葉に、少し胸を打たれた。


——そう、それだ。


派手ではないのに、ちゃんと心に残る味。


アリスは次々と箸を進める。


「ねえ、どうしてこんな味になるの?」


店主は、ゆっくり答えた。


「急がへんことやな。


火も、だしも、時間も。全部ちょっとずつ待つんよ」


「待つ……」


アリスは考え込む。


「不思議の国では、みんな急いでばかりだったわ」


「せやろな。でもな、待った分だけ、味は深くなるんよ」


その言葉に、佐伯はふと、自分の生活を思い返した。


効率、スピード、結果。


待つことを、どこかで無駄だと思っていた。


アリスはにっこり笑った。


「ここ、なんだか安心するわ。帰りたくなくなるくらい」


店主は、静かに言った。


「帰る場所があるから、こういう場所もええんやで」


佐伯は、箸を止めた。


——自分には、帰る“味”がない。


そう思っていた。


でも、もしかしたら。


こうして誰かの作ったものを、ゆっくり味わうことも、


ひとつの“帰る場所”なのかもしれない。


その夜、三人は不思議な時間を過ごした。


言葉は多くなくても、湯気とだしの香りが、会話の代わりをした。


やがて、外の風が少し冷たくなる頃。


「そろそろ、戻らなくちゃ」


アリスは立ち上がった。


「また来てもいい?」


店主は微笑む。


「いつでもおいで。ここは逃げへんから」


アリスはくるりと回ると、また“ころん”と音を立てて、どこかへ消えていった。


静けさが戻る。


佐伯は、最後の味噌汁をゆっくり飲み干した。


「……また来ます」


店主は頷いた。


「待ってるよ」


外に出ると、京都の夜はしんと静かだった。


けれど彼の中には、確かに残っていた。


あの味。


あの時間。


そして——“普通”という名の、あたたかさが。 

 
 
bottom of page