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グリーンノート

  • x Happy
  • 4月17日
  • 読了時間: 4分

彼女は、花束の香りが苦手だった。


それは、ただの好みではなかった。


むせ返るような甘さ、重たく漂う香りに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。


まるで、言葉にできない感情が一気に押し寄せてくるようで、彼女はいつも少しだけ息を止めてしまうのだった。


「ごめんね、花、あんまり得意じゃなくて」


初めてそう言われたとき、彼は少し驚いた。


誕生日でも、記念日でも、花束を渡せば喜ぶものだと、どこかで思い込んでいたからだ。


それでも彼は、無理に笑って言った。


「そっか。じゃあ、今度は別のものにするよ」


彼女はほっとしたように微笑んだ。


その笑顔は、どんな花よりもきれいだと、彼は本気で思った。


――でも、彼は知らなかった。


彼女が苦手なのは、花そのものではなく、“記憶”だったことを。


ある初夏の日。


風が少しだけ湿り気を帯び始めた頃、彼は彼女を郊外へ誘った。


「今日は、花じゃないよ」


そう言って、彼が連れて行ったのは、小さな林の中だった。


舗装もされていない道。足元には柔らかな土と、踏みしめるたびに香る青い匂い。


「この匂い、わかる?」


彼女は立ち止まって、静かに息を吸った。


草。葉。まだ若い茎。


太陽に温められた緑が、ふわりと立ちのぼる。


それは、いわゆる“グリーンノート”。


花の甘さとはまるで違う、透明で、どこまでも軽やかな香りだった。


「……好きかも」


彼女がぽつりと呟いた。


彼は少し驚いた顔をして、そして嬉しそうに笑った。


「よかった」


彼女は、その場にしゃがみ込んだ。


指先で草をなぞり、葉をくしゃっと握ると、さらに強く香りが広がる。


「ねえ、これ……安心する匂い」


彼女の声は、とても静かだった。


「昔ね、花束をもらったことがあったの。


 大きくて、すごくきれいで……でも、そのときのこと、うまく思い出せなくて」


彼は何も言わずに聞いていた。


「ただ、すごく苦しくて。


 その香りを嗅ぐと、胸がいっぱいになって……うまく呼吸ができなくなるの」


彼女は少しだけ笑った。


「だから、花が嫌いなんじゃなくて……たぶん、思い出が怖いの」


彼は、その言葉を胸の奥でゆっくりと受け止めた。


それからというもの、彼は花束を贈らなかった。


代わりに、彼女と一緒に“香り”を探すようになった。


雨上がりの土の匂い。


刈りたての芝生。


風に揺れる若葉。


どれも、彼女は少しずつ好きになっていった。


そして、彼は気づいていた。


彼女が笑うたびに、その香りがどこか彼の中にも残ることに。


まるで、彼女そのものが、ひとつの“グリーンノート”のようだった。


けれど、永遠に続く香りはない。


ある日、彼女は静かに言った。


「私、引っ越すことになったの」


遠くの街だった。


仕事の都合で、戻る予定もまだわからないという。


彼は、何も言えなかった。


引き止める言葉も、送り出す言葉も、どちらも軽すぎる気がした。


最後の日。


彼は、ひとつだけ彼女に渡した。


花束ではなかった。


小さなガラスの瓶。


中には、淡い緑色の液体。


「香水?」


彼女が聞く。


彼はうなずいた。


「グリーンノート。草とか葉っぱの香り」


彼女は、そっと蓋を開けた。


ふわりと広がる、あの林の匂い。


初めて「好きかも」と言った日の、あの空気。


彼女の目が、少しだけ潤んだ。


「これなら、大丈夫」


そう言って、彼女は微笑んだ。


彼女が去ったあとも、彼は時々その林を訪れた。


同じように草を踏み、同じように香りを感じる。


けれど、どこか足りない。


あのとき隣にいた、彼女の気配だけが、どうしても戻らなかった。


遠くの街で、彼女は時々その香水をつける。


胸が苦しくなることは、もうない。


むしろ、少しだけ優しくなれる。


草の匂いに混じって、思い出す。


花束をくれなかった人。


代わりに、“息ができる香り”をくれた人。


花のように華やかではなくても、


強く主張することもなくても、


静かに寄り添う香りがある。


それはきっと、


言葉にならなかった恋のかたちだった。 


解説

グリーンノートとは

草木の生い茂る野山のような

ほんのり渋みのあるナチュラル&自由、

さわやかな香りのことです。

 
 
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