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スコーンの差し入れ(F1)

  • x Happy
  • 5月10日
  • 読了時間: 4分

イソッタのお茶会と、風の前の静寂


イタリアの空は、まだ朝焼けの途中でした。


古い石畳の町の外れ。


サーキットへ続く道沿いに、小さなティールームがあります。


店の名前は――


「La Curva del Tè(ラ・クルヴァ・デル・テ)」。

“お茶のカーブ”。


カーブの先には、何があるかわからない。


でも、だからこそ面白い。


そんな意味を込めて、イソッタがつけた名前でした。


店の窓には、朝露。


オーブンの前では、レモン色のエプロンをつけたイソッタが、小さく鼻歌を歌っています。


けれど今日は、少しだけ表情が違いました。


「……今日なのね」


遠くから聞こえる、低い振動音。


――ヴォォォォォン……


サーキットのエンジン音です。


今日はF1レースの日でした。


白うさぎのルチアが、ティーカップを並べながら尋ねます。


「イソッタ、どうしてそんなに落ち着かないの?」


イソッタは少し考えてから、小麦粉をふるいながら答えました。


「速く走る人を見るとね、“勇気”って何だろうって考えるの」


「勇気?」


「うん。怖いのに前へ進むこと」


その言葉を言った時、


イソッタは窓の向こうを見ました。


サーキットのピットでは、レーサーたちが準備をしている頃です。


ヘルメット。


グローブ。


タイヤ。


無線確認。


ほんの数ミリのミスが、命に関わる世界。


観客は華やかなレースを見ます。


けれど本当は、スタート前が一番静かなのです。


深呼吸する音。


肩を回す音。


緊張を隠す笑顔。


その静けさの中に、皆の不安が隠れていました。


イソッタは以前、若いレーサーから聞いたことがありました。


「スタート前はね、喉が乾くんだ」


「怖いんですか?」


「もちろん」


彼は笑いながら言っていました。


「怖くない人なんていない。でも、その怖さを抱えたままアクセルを踏むんだ」


その言葉を、イソッタはずっと覚えていました。


だから今日は、特別なスコーンを焼こうと思ったのです。


「身体だけじゃなく、心も温まるものを作りたいな」


テーブルの上には、コスタリカの茶葉。


南の太陽を浴びた香りは、少し甘く、少し青い。


それを細かく刻み、生地へ混ぜ込みます。


さらに、


ドライイチジク。


レーズン。


オレンジピール。


クランベリー。


「疲れた時、果物の甘さって元気をくれるのよ」


バターを混ぜる手は、まるで音楽みたいに軽やかでした。


ルチアが生地を覗き込みます。


「今日は森の香りがする!」


「今日は“風に勝つためのお茶会”だから」


オーブンへ入れると、


店いっぱいに香りが広がりました。


焼き上がったスコーンは、こんがりきつね色。


外はさくり。


中はふんわり。


茶葉の香ばしさの奥から、ドライフルーツの優しい甘みが広がります。


イソッタは、それを丁寧に布で包みました。


紅茶もポットへ。


そしてサーキットへ向かいます。


そこはまるで別世界でした。


巨大なトラック。


無線の声。


工具の金属音。


ピットクルーたちの真剣な顔。


空気が張りつめています。


まるで嵐の前。


イソッタは、ひとりの若いレーサーを見つけました。


彼はヘルメットを持ちながら、静かに首を回していました。


F1レーサーの首には、レース中、信じられない負担がかかります。


高速コーナーでは、首に何十キロもの力。


だから彼らは、毎日のように首を鍛えます。


けれど――


どれだけ鍛えても、緊張までは消えません。


レーサーはイソッタに気づくと、小さく笑いました。


「また来てくれたんだ」


「今日は特別です」


籠を差し出します。


「コスタリカの茶葉入りスコーン。ドライフルーツも入っています」


レーサーは一口食べました。


そして、少し驚いた顔。


「……あったかい味がする」


「焼きたてですから」


「違う。なんていうか……緊張してた頭が、少し静かになる」


その言葉に、イソッタはほっと笑いました。


すると隣のメカニックが言います。


「レース前にそんな顔したの、初めて見たぞ」


皆が少し笑いました。


ほんの少しだけ、空気が柔らかくなります。


その時――


場内アナウンス。


スタート時間が近づいていました。


レーサーはヘルメットを抱え、深呼吸します。


その横顔は、やっぱり少し怖そうでした。


でも同時に、前へ進もうとしていました。


イソッタは静かに紅茶を注ぎます。


湯気が、朝の光の中で揺れました。


「ねえ」


レーサーが振り返ります。


「はい?」


「勝ったら、またスコーン焼いて」


イソッタは笑います。


「負けても焼きますよ」


一瞬。


彼の緊張がほどけました。


そして彼は、マシンへ向かいます。


エンジンが唸る。


空気が震える。


世界が速度へ変わる。


けれどその胸の奥には、


確かに残っていました。


コスタリカの茶葉の香りと、


小さなお茶会の温かさが。 

 
 
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