日常のあたたかさ
- x Happy
- 5月8日
- 読了時間: 3分
更新日:5月9日
昼休みの会社のカフェは、いつもより少し騒がしかった。
エスプレッソの香り。 トレイのぶつかる音。 誰かの陽気な笑い声。
窓際の席に座っていた クラウディオ は、 軽いランチを前に満足そうな顔をしていた。
皿の上には、 ポテトフライと小さなサラダ。
同僚は驚いたように言う。
「それだけ? 足りるのか?」
クラウディオはニヤッと笑った。
「今日は夜が本番なんだ」
「またか。ハンバーガー?」
「巨大なやつ」
両手を広げて、 大きさを説明する。
同僚たちは笑った。
クラウディオは、 食べることが好きだった。
特に、 豪快なハンバーガーが好きだった。
肉。 チーズ。 カリカリのベーコン。 山のようなポテト。
だから昼は軽くしていた。
夜に全力を出すためだ。
サラダを一口。 ポテトをつまむ。
「完璧な作戦だ」
彼は本気でそう思っていた。
仕事を終え、 夕方の風を受けながら家へ帰る。
古いアパートの階段を上がる途中、 彼はもう頭の中でハンバーガーを完成させていた。
ソースはどうだろう。 パンはカリカリかな。 チーズは二枚かな。
そんなことばかり考えていた。
けれど、 玄関を開けた瞬間。
ジュワァァァ……
熱い油の音が聞こえた。
そして、 ニンニクの香り。
クラウディオは少し目を丸くする。
「……マンマ?」
キッチンでは、 マンマがフライパンの前に立っていた。
油の中では、 アンチョビがカリッと揚がっている。
隣では、 ナスがオリーブオイルをたっぷり吸いながら、 こんがり色づいていた。
「ハンバーガーじゃないの?」
するとマンマは、 当たり前みたいに答える。

「気が変わったの」
それだけだった。
イタリアの母親というのは、 時々こういう変更をする。
スーパーで良いアンチョビを見つけた。 今日はナスが美味しそうだった。 その瞬間の気分。
理由はそれで十分だった。
クラウディオは少し残念そうな顔をしたあと、 すぐに笑った。
なぜなら、 彼はフライが大好きだったからだ。
「……それなら許す」
「許してくれなくて結構よ」
マンマは笑いながら、 皿に揚げたてを並べる。
クラウディオは炭酸入りミネラルウォーターを開けた。
シュッ……
細かな泡が立ち上る。
テーブルを見ても、 サラダはなかった。
マンマは知っているのだ。
クラウディオが、 サラダを作っても結局食べないことを。
以前、 大きなボウルいっぱいに作ったサラダが、 ほとんど残ったことがあった。
「体にいいのに」と言いながら、 最後は自分で全部食べる羽目になった。
それ以来、 マンマは学習した。
食べないものは、 最初から出さない。
その代わり、 彼の好きなフライは山ほど作る。
アンチョビフライは、 外が軽く、 中はふわりとしていた。
ナスはとろけるように柔らかい。
ニンニクの香りが、 部屋いっぱいに広がる。
クラウディオは一口食べて、 思わず言った。
「……ハンバーガーじゃなくても、 今日は当たりの日だな」
マンマは、 少しだけ得意そうな顔をした。
窓の外では、 夜風がカーテンを揺らしている。
どこにでもある、 何気ない一日。
でも、 誰かの好きなものを覚えている食卓というのは、
それだけで少し幸せだった。
解説
サンペレグリノの水、窓からみえるバチカン、
キッチンの感じをイタリアらしい絵で表現してみました。


