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菜食だったイソッタの考えの変化

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  • 5月11日
  • 読了時間: 5分

更新日:5月18日

イタリアの北の町、石畳が雨に濡れるころになると、空気にはエスプレッソと焼き栗の香りが混ざり始める。


その町の坂の上に、イソッタは住んでいた。


朝になると窓を開け、鉢植えのバジルに水をやり、


市場で買ったトマトを並べ、


白い皿にオリーブを置き、


静かに暮らす。


彼女は菜食を中心にした生活をしていた。


理由は単純だった。


野菜を食べると、体が軽く感じるからだ。


赤いパプリカ。


炭火で焼いたナス。


甘い玉ねぎ。


ひよこ豆のスープ。


レモンを絞ったフェンネルのサラダ。


どれも大好きだった。


「身体は、畑から作られるのよ」


それがイソッタの口癖だった。


だが、その年の夏、


彼女は少しずつ、自分の変化に気づき始めていた。


朝起きても疲れが抜けない。

イミダペプチドの力
イミダペプチドの力

昼になると、頭に霧がかかったようになる。


好きだった読書も集中できない。


人と会って笑っていても、どこか脳の奥が重たい。


まるで、心の中の小さな楽団が、静かに演奏を止めていくようだった。


「変ね……」


イソッタはキッチンでそう呟いた。


栄養には気を使っていた。


野菜も豊富。


豆も食べている。


オリーブオイルも良質なものを選んでいる。


なのに、疲れる。


ある夏の雨の日。北イタリアといえども


暑い日だった。


お気に入りの白いジョーゼットを着て外にでた。



彼女は町外れの古書店へ向かった。


そこは古い料理本や薬草の本が並ぶ、不思議な店だった。


店主は、白髪の老紳士ルイジ。


料理人でもあり、薬草学にも詳しく、町では「食べる哲学者」と呼ばれていた。


イソッタは椅子に座るなり言った。


「最近、疲れが取れないの」


ルイジは彼女の顔を見て、静かに微笑んだ。


「翼が疲れている顔だね」


「翼?」


「人間の身体にも、“飛ぶ力”が必要なんだよ」


そう言うと彼は、一冊の古びた本を取り出した。


そこには、渡り鳥の絵が描かれていた。


「渡り鳥は、何千キロも飛び続ける。休まずにね。なぜだと思う?」


「強いから?」


「もちろんそれもある。でも、彼らの筋肉には、“疲れにくさ”を支える成分が多く含まれている」


ルイジはページをめくった。


「イミダペプチドだ」


イソッタは初めて聞く名前に、少し首を傾げた。


「それは何?」


「簡単に言えば、“疲労に対抗する小さな盾”だよ。特に鶏の胸肉に多く含まれている」


窓の外では、雨粒が石畳を叩いている。


ルイジは続けた。


「人間は活動すると、体の中で酸化という現象が起きる。特に脳や筋肉は疲労でダメージを受けやすい。イミダペプチドは、その負担を和らげる働きが期待されているんだ」


「脳にも?」


「そう。中枢神経にも良い影響があると言われている。頭がぼんやりする疲れ、集中力の低下、そういうものにも関係していると考えられている」


イソッタは静かに聞いていた。


「それに面白いのはね、この成分、熱に強い」


「熱に?」


「普通、栄養は加熱で壊れやすいものも多い。でもイミダペプチドは比較的安定している。スープにしても、焼いても良い」


ルイジは笑った。


「つまり、イタリア料理向きなんだ」


イソッタは思わず吹き出した。


「それ、大事なの?」


「とても大事だよ。美味しく続けられなければ、身体は喜ばない」


その帰り道。


イソッタは雨上がりの市場を歩いていた。


肉屋の前で、彼女は立ち止まる。


ショーケースの中には、美しく並べられた鶏胸肉。


彼女は少し迷った。


長く菜食中心で生きてきた。


それは彼女の価値観でもあった。


けれど同時に、彼女は思った。


「身体を守ることも、自然を大切にすることなのかもしれない」


彼女は小さく頷き、必要な分だけ鶏胸肉を買った。


その夜。


キッチンには、にんにくとローズマリーの香りが漂っていた。


イソッタは鶏胸肉を丁寧に下処理し、塩を軽く振る。


オリーブオイルでゆっくり焼き、白ワインを少し加える。


隣では、白いんげん豆と野菜を煮込んでいた。


菜食で大切にしてきた世界と、必要最低限の動物性タンパク質。


その二つが、一つの皿の上で静かに共存していた。


仕上げにレモンを絞る。


湯気の向こうで、イソッタは思った。


「私は、“どちらかだけ”になっていたのね」


一口食べる。


驚くほど優しい味だった。


重くない。


けれど、身体の奥にじんわり力が入る。


翌朝。


イソッタは久しぶりに、目覚ましより早く目が覚めた。


窓を開けると、朝日が差し込んでくる。


頭の霧が少し薄い。


彼女は外へ出た。


坂道を歩く。


足取りが昨日より軽い。


市場の声が、はっきり聞こえる。


パン屋の笑い声。


魚屋の冗談。


バジルの香り。


世界に輪郭が戻っていた。


数日後。


イソッタはルイジの店へ向かった。


「少し元気になったみたいだね」


「ええ。不思議」


ルイジは微笑んだ。


「人間は、思想だけでは飛べない。身体という翼も必要なんだ」


「イミダペプチドって、本当に渡り鳥みたいね」


「そうだね。長く飛ぶ者の知恵だ」


イソッタは静かに頷いた。


その日から彼女は、野菜を愛する暮らしを続けながら、必要な時には少しだけ鶏胸肉を料理するようになった。


トマトと煮込んだり、


レモンソースを添えたり、


スープにしたり。


疲れを感じた日には、自分に優しくするように。


そして彼女は、友人たちにこう話すようになった。


「身体は、畑だけではなく、“飛ぶ鳥の知恵”からも作られるのよ」


その言葉を聞くたび、町の人々は笑った。


けれどイソッタだけは知っていた。


疲れきった心に必要なのは、


ただ頑張ることではない。


身体をいたわり、


脳を休ませ、


必要な栄養を受け入れること。


それは弱さではなく、


人生を長く飛ぶための、静かな強さなのだと。 


つづく

 
 
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