top of page

鹿児島 あかうさぎうま

  • x Happy
  • 5月23日
  • 読了時間: 3分

更新日:5月23日

広島の雨は、どこか静かでした。


夜の電車が走り去るたび、濡れた線路が白く光る。


厄年35歳の慎之介は、 


古びた傘を肩に、小さな居酒屋の暖簾をくぐりました。


その日も仕事はうまくいかなかった。


頑張っても空回り。


人に気を遣ってばかり。


未来を考えるほど、不安ばかりが増えていく。


「自分には、何もないな……」


カウンター席に座り、慎之介は小さく息を吐きました。


店の奥では古いラジオが流れ、焼き魚の香りが漂っている。


広島らしい、どこか温かな店でした。


女将が静かに尋ねます。


「何か飲みますか?」


慎之介は少し迷って答えました。


「……強い酒、ください」


すると隣に座っていた老人が、ふっと笑いました。


白髪混じり。


深い皺。


けれど目だけは、不思議なくらい優しい。


「強いだけじゃ、だめじゃよ」


老人はそう言って、一本の瓶を指差しました。


それは、赤兎馬。


耳にささやくように 近寄って


老人はいいました。



「 セキトバ  を飲んで みんさい」


慎之介はグラスを受け取りました。


湯割りから立ち上る香りは、意外なほど柔らかい。


甘い芋の香り。


少し花のような香り。


そして後から来る、静かな力強さ。


「飲みやすい……」


思わずそう呟くと、老人は頷きました。


『赤兎馬いう名前、知っとるか?』


慎之介は首を振りました。


「昔、中国の英雄が乗っとった名馬の名前じゃ。


一日に千里を走ると言われた、美しい馬よ」


老人は湯気を見つめながら続けました。


「でもな、本当にすごい馬いうのは、“速い馬”じゃない。


主人が苦しい時、倒れそうな時でも、最後まで運んでくれる馬なんじゃ」


慎之介は黙って聞いていました。


店の外では、広島の雨が静かに降っている。


老人は焼酎を一口飲み、少し笑いました。


「人生も同じじゃ。


うまくいく時だけ走る人間は、本当は弱い」


「……」


『転んでも、恥かいても、  


情けなくても、また立つ。


それができる人間は強い』


慎之介の胸が少しだけ痛みました。

令和8年5月22日金曜の山下慎之介のこころ
令和8年5月22日金曜の山下慎之介のこころ

最近、自分はずっと“失敗した自分”ばかり見ていた。


誰かより遅れている気がした。


人生に置いていかれている気がした。


すると老人は、ぽつりと言いました。


「若い頃のわしものう、会社潰して借金だらけになった」


慎之介は驚いて顔を上げます。


「えっ……」


「家族にも迷惑かけた。逃げたかった。


でもな、不思議なもんで、生きとったら少しずつ景色が変わる」


山にのぼっていくと、景色がかわるように、、、


老人は笑いました。


「雨の日ばっかりは続かんのよ」


カウンターの上で、赤兎馬の湯気が揺れている。


香りは優しいのに、芯がある。


まるで、“大丈夫だ”と語りかけてくるようでした。


「赤兎馬はな、柔らかい香りの奥に、ちゃんと力がある酒なんよ」


老人は静かに言いました。


「人も同じじゃ。


優しい人間は弱く見える。


でも、本当に優しい人は、いっぱい苦しんできた人なんじゃ」


慎之介は気づくと、少し笑っていました。


何ヶ月ぶりだろう。


心の奥の固まっていたものが、少し溶けていく。


広島の夜は、まだ雨でした。


けれど帰り道。


慎之介には、雨の匂いが少し違って感じられました。


冷たいだけじゃない。


どこか、明日へ続く匂い。


彼は空を見上げ、小さく呟きます。


「……もう少し、走ってみるか」


その背中を押すように、居酒屋の灯りが雨の中で温かく揺れていました。 


解説


仮名 山下慎之介(やまがみとよむ)

という人物を

主人公にして

赤兎馬のお話を書いてみました。


つづく

 
 
bottom of page